滑川町ゆかりの偉人紹介(主な人物)

更新日:2024年02月28日

滑川町にゆかりのある偉人について主な人物を紹介します。

大塚大恵八(おおつかだいはち)

大塚大恵八肖像画

大塚大恵八肖像

大塚大恵八(おおつかだいはち)

(注意)機種依存文字のため使用できませんが、だいはちの「だい」は、正式には「大」の下に「多」

出生地:鳩山町

生没年:1849年~1932年(嘉永2年~昭和7年)

主な功績等:教育者・剣術家(甲源一刀流)・

政治家(村長、県会議員、等)

ゆかりの地

福正寺(月輪454):寿碑が建てられている。

宮島勘左衛門の碑(月輪461):大恵八が勘左衛門の偉業を讃えた賛辞が書かれている。

人物概要

大塚大恵八は、慶応2年(1866)に甲源一刀流宗家の逸見四郎長英に師事し、宗家直伝の目録を受け、翌年に旧月輪村の大塚家に婿入りした人物です。

明治13年(1880)には、宅地内に剣道場を建て、明治16年(1883)に左右社を設立し社長となりました。

近郷の子弟に剣術や学芸を教え、その門弟は2,000人を超えたとされています。

明治17年(1884)の秩父事件の際には、鎮圧のため門弟数十人を引き連れ、小川町腰越方面の警戒にあたり、その功績により県知事より賞され、榊原健吉から倭杖を贈られました。また、剣術の額を熱海神社、函館神社等に奉納しています。

剣術のみならず、旧月輪小学校長や旧宮前村初代、3代の村長の他郡会議員、県会議員も務め、町の歴史に大きな影響を与えました。

(備考)秩父事件

明治17年に不況による借金や重税に苦しむ秩父地方の農民が困民党を組織し、高利貸しへの返済延長や村民税の減税を要求し、武装蜂起した事件です。

1万人近い農民が高利貸しや郡役所、警察などを襲撃し、最終的には東京鎮台から軍が派遣され、鎮圧されました。

関係資料

町指定文化財 大塚家史料

大恵八の愛刀とされる天保2年銘畠山大和介正光作の刀や鉄錆地六十二間筋兜などの歴史的価値の高いものや当時の近郷との関わりを示す門弟帳、多くの揮毫等を行った愚禅の書など町の歴史を知る上でも貴重な資料が多く残っています。令和4年9月6日に町指定文化財となっています。

鉄錆地畠山大和介正光作刀

大塚

愚禅和尚(ぐぜんおしょう)

興長禅寺

興長禅寺

愚禅和尚(ぐぜんおしょう)

出生地:吉見町

生没年:1733年~1829年(享保18年~文政12年)

主な功績等:能書家・高僧

(「観音構式」の校訂、「仏道事引草序」の著述等)

ゆかりの地

興長禅寺(羽尾4717-1):住職を務めた寺で愚禅の碑などが残る。

人物概要

愚禅和尚は、享保18年(1733)に丸貫村(吉見町)に生まれ、羽尾村の旧家の養子となり、10代前半には興長禅寺(羽尾)の癡天愚和尚によって剃髪し、出家しました。

その後、長州(山口県)功山寺などに赴き、諸国を巡りながら修行し、宝暦12年(1762)に羽尾村に戻り、興長禅寺20世住職となりました。明和2年(1765)永平寺(福井県・道元の開山)で瑞世修行(一夜住職と呼ばれ、正式な和尚になるために宗派大本山で行う認定試験のようなもの)を積み、次第に名声が高まっていきました。

寛政元年(1789)には、曹洞宗の由緒ある加賀(石川県)の大乗寺の43世管主になりました。

その後故郷に帰り、文化5年(1808)に、熊谷市原島に福王寺を開基しました。その後の生涯を福王寺で過ごし、「観音構式」の校訂や「仏道事引草序」の著述を行い、文政12(1829)年に亡くなりました。

また、愚禅は能書家として知られており、多くの筆跡が寺社の額や石仏などに残されています。県内では100件を超え、町内にも約20件あり、当時付近の村人達からたびたび石塔などの揮毫を求められていたことが分かります。

関係資料

町指定文化財 愚禅の馬頭尊

羽尾悪戸にある馬頭尊の書は、文化2年(1805)に書かれたもので、緑泥石片岩で造られています。愚禅の地域に溶け込んだ活躍を偲ばせるものであり、高さが257cmあります。昭和59年(1984)3月31日に、町指定文化財になりました。

愚禅の馬頭尊

町指定文化財 大塚家史料:指定品の中に「松竹梅」3本一対の愚禅の書があります。

愚禅の書

羽尾神社:鎮護宮の愚禅書の額があります。

羽尾神社愚禅書の額

興長禅寺:禁葷酒碑や愚禅がよく書いた龍の書とその功績を記した碑があります。

葷酒碑愚禅

小林三徳(こばやしさんとく)

三徳が算額を奉納した観音堂

三徳が算額を奉納した観音堂

小林三徳(こばやしさんとく)

出生地:滑川町

生没年:1805年~1878年(文化2年~明治11年)

主な功績等:和算学者(数学教授)

ゆかりの地

成安寺馬頭観音堂(福田1202-1):三徳奉納の算額がある。(原則非公開)

 

人物概要

19世紀初め、数学が6芸の1つとされ、大は日月の運用をはかり、小は金・穀の出納を扱い、1日として欠かすことができないという考えが普及しました。小林三徳は、その頃の和算学者(現在のところの数学教授)で、幼い頃から算学に励み、郷土の人たちなどに広く教え、その門人(弟子)が多かった人物です。

関係資料

町指定文化財 小林三徳算額

小林三徳算額は、元治2年(1865)60歳の時に成安寺観音堂に奉納したものです。

算額を奉納した目的は、自分の解いた問題と答を書いて神仏の加護を感謝し、あわせて算学の発展を願い奉納したとされています。内容は立体図形を扱ったもので立方体・球・三角錐の問題と答が書かれています。

小林三徳算額

 

宮島勘左衛門(みやじまかんざえもん)

宮嶋勘左衛門之碑

宮嶋勘左衛門之碑

宮島勘左衛門(みやじまかんざえもん)

出生地:滑川町

生没年:1814年~1868年(文化11年~慶応4年)

主な功績等:枇木(ヒギ)の製造・創始者

ゆかりの地

宮嶋勘左衛門之碑(月輪461):勘左衛門の顕彰碑

人物概要

宮嶋勘左衛門は、文化11年に旧月輪村で生まれました。18歳のときに養子となって、若い頃は江戸へ出て幕府の作事場で働いていましたが、30歳頃郷里に帰り妻とともに農作業や木挽きをするかたわら、附木(松などの木を薄く削り先端に硫黄を付着させた点火用具:マッチの原型)の製造に力を入れていました。たまたま弘化年間(1844~1848)に関東一円の竹が枯れて魚・飯・菓子などを包装する竹皮がなくなり、なんとかして竹皮に代わるものを作ろうと考え、附木作りに目をつけ、松を附木よりもっと広く薄く削ることを思いつきました。

苦心の末、嘉永5年(1852)についに枇木を作り出すことに成功しました。皮肉なことに、この頃竹が再び繁りだし、ヒギの普及は芳しくなく、勘左衛門は慶応4年(1868)に54歳で世を去りました。しかし、その後ヒギの良さが見直され、付近の農家に枇木づくりは引き継がれ、明治・大正・昭和を通じてこの地方の代表的な農閑期の副業となりました。昭和30年代になるとポリ袋などの科学製品に押され、下火になっていきました。

ヒギ作りの様子1ヒギ作りの様子2ヒギ作りの様子3

関係資料

町指定文化財 宮嶋勘左衛門之碑

おむすびや菓子を包むのに用いたヒギの創始者宮島勘左衛門の偉業を伝える顕彰碑です。

明治40年銘の碑文の最後には宮前村村長を務めた大塚大恵八が讃辞を次のとおり示しています。

「人には考えもつかない志を立て、自らを鞭打ち終始一貫した工夫を凝らしそれを果たした。人生ははかなくも過ぎたが、遺業は永遠に伝えよ。」

昭和61年3月31日に町指定文化財になっています。

鳴水毛受雄也(めいすいめんじゅおなり)

鳴水毛受雄也(めいすいめんじゅおなり) 別名:毛受 重徴(本名)

出生地:愛知県名古屋市

生没年:1830年~1894年(文政13年~明治27年)

主な功績等:漢学者・教育者

ゆかりの地:森林公園緑道脇 門人・子弟による墓碑がある。

人物概要

鳴水毛受雄也は、名古屋の生まれで、幼少の頃から文学を好み犬山藩校の教授村瀬立斎の門に入り、弘化9年尾張藩主徳川斉朝の命で濃州郡上八幡の大名青山幸哉に仕え、藩校の大助講になった。廃藩置県で職を辞し、明治14年に東京から滑川町羽尾の神宮設楽家に移り、その後、盈科学舎や私塾で多くの子弟に漢学を懇切丁寧に教え小学校卒業後の青年教育に大きく貢献しました。

関係資料

森林公園緑道脇の墓碑:子弟が毛受先生の遺徳を偲び建立した墓碑がある。

鳴水毛受雄也墓碑

竹ニ坊(ちくにぼう)

竹二坊(ちくにぼう) 別名:五道庵・光谷自得

出生地:滑川町

生没年:1759年~1835年(宝暦9年~天保6年)

主な功績等:医師・俳人(芭蕉翁正伝編者)

ゆかりの地:伊古神社(伊古1242)雨乞いの碑がある。

文殊寺(熊谷市野原)芭蕉句碑等がある。

人物概要

竹二坊は、旧福田村に生まれ、若い頃より江戸に出て医学を志し、藤堂伊賀守の侍医となり、正風美濃派の宗匠五箕庵の傘下で俳諧を学びました。江戸と芭蕉の故郷伊賀を往復する生活の中で芭蕉の研究を深め、芭蕉翁が書いた正風の真義を示す重要文書『芭蕉翁正風伝』を著作しました。文化8年に視力の衰えにより、侍医の職を辞し帰郷し、その後は付近の希望者に俳諧を教え広め、弟子の芝山、牛歌に美濃派の秘伝書『道統相伝』を伝えました。また、弟子牛歌の著書『奥羽紀行』の序文を書いています。

関係資料

伊古神社:雨乞いの碑

雨乞いの碑

文殊寺:芭蕉句碑、芭蕉翁塚碑

栗原次郎兵衛(くりはらじろうべえ)

栗原次郎兵衛(くりはらじろうべえ) 別名:牛歌

出生地:滑川町

生没年:不明

主な功績等:俳人(奥羽紀行)

ゆかりの地:伊古神社(伊古1242)同志を勧進し、造立した芭蕉句碑がある。

慶徳寺加田薬師堂(中尾812)俳額を奉納している。(非公開)

成安寺馬頭観音堂(福田1202-1)俳額を奉納している(非公開)

人物概要

栗原次郎兵衛は、百姓代や名主など村役人として活躍しながら、竹二坊について俳諧を学び、相伝秘書を受け、俳諧の宗匠として俳句の普及に努めました。慶徳寺にある加田薬師堂や成安寺にある馬頭観音堂に自身撰の俳額とともに本町や遠近の俳人多数から寄せられた作品を列記し、奉納しています。また、俳句を嗜む同志を勧進し、伊古神社の参道脇に「春もやゝ けしきとゝのふ 月と梅 芭蕉翁」の句碑を造立しています。文政8年には、竹二坊の門人16名ほどの俳人たちと俳諧の素養を養い、芭蕉の『奥の細道』にある足跡や札所などを巡り、見聞を広める旅の団長役を務めた。その際に、自ら旅行中の見聞や同行者の作った俳句や私歌などを記録し、師の竹二坊から序文をいただき1冊の本にして『奥羽紀行』と題しました。

関係資料

伊古神社:芭蕉句碑

芭蕉句碑

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教育委員会事務局 文化財保護担当

〒355-0803
埼玉県比企郡滑川町大字福田763-4

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